■【教科書が教えている歴史】
【ドイツ】『日本は欧州の植民地支配層を追い出した。』
 近現代史においてドイツと日本が互いにかかわり合う部分は少なくない。ドイツは両国が共有する歴史をどう認識し、日本をどのようにみているのか。歴史教科書の記述はこうした問いに対する答えでもある。
ドイツが敗戦国になり、日本が戦勝国側となった第一次世界大戦から第二次大戦に至る当時の国際情勢についてこう記述する。
「一九一九年から三九年にかけての国際政治における転換点は国際連盟の破たんではなく、二九年以降の世界大恐慌だった。いぶき始めた平和的な紛争制御や自由貿易の“芽”の多くは無に帰し、その結果としてドイツや日本、イタリアは軍事的な方法を用いて経済的な勢力地域を確保しようと試みた」(コーネルセン社「歴史教科書」=高等教育用)
第一次大戦のパリ講和会議(一九一九年)でドイツは植民地分割、巨額の賠償など過酷な制裁を科せられた。これが第二次大戦の遠因となるのだが、この会議で日本は「人種平等の原則」を確認するよう提案したものの、いれられなかった。当時、アジアにおける日本の台頭に危機感を抱く米国は日本人移民排斥の動きを強めるなど、アジアの利権をめぐって日本への露骨な警戒感を示していた。
「一九三六年、ドイツと日本は『世界共産主義』に対抗するため、防共協定を締結し、翌年イタリアもこの協定に加わった。四〇年には(日独伊)三国同盟が誕生して緊密な協力関係を構築し、同盟国の膨張主義政策を住み分けることで合意をみた。欧州の全体主義国家と軍事国家日本には多くの共通点があった。日独伊三国はすべて反リベラル主義や反共主義を掲げていた。ナチスドイツの人種差別的な『支配人種思想』は非日本的世界に対する日本人の優越信仰と相通じていた」(同「歴史教科書」=中等教育用)
『ドイツと日本が防共協定を結んだ背景』「ソ連ではスターリンが集団化政策を推し進め、独裁の基盤を固めていった。しかし、この共産主義国家は外交的には孤立していた。(ソ連は)英国と反ナチ同盟を結ぼうとしたが成果はなかった。英国や日本、イタリアもドイツにおけるナチズムを共産主義を防ぐ砦(とりで)とみていたからだ」(クレット社「歴史と出来事」=高等教育用)
日本が「非日本的社会」に優越感を抱いていたかはともかく、ますます強まる米国の日本孤立策が日本をナチスドイツとの同盟へと走らせた。
「米国は日本がアジアの強国として発展してゆくさまを注視していた。今日、米国の自動車産業が日本に追い抜かれてしまったように、当時、米国の繊維市場は日本製品であふれていた。太平洋地域と中国で米国と日本の経済的な利害がぶつかり、両国政府はアジア市場でできるだけ自国産業の優位性を確立しようと試みた」(「歴史教科書」=高等教育用)
「一九四二年から四三年への年の変わり目において、戦争はすでに欧州だけにとどまらなくなっていた。日本が四〇年に仏領インドシナを占領し、主に米国が十九世紀以来、東アジア諸国に圧力をかけ続けてきた世界市場への開放政策を逆戻りさせようとし始めたとき、日米の対立は先鋭化した。米国が日本に対する石油禁輸を実施し、中国からの撤退を求めたさい、日本はハワイの真珠湾への奇襲を決行した」(同)
米国と開戦した日本の思惑と、国際的覇権をめぐる権力闘争の文脈の中で考えていた米国やドイツとの違いを指摘する部分もある。
「日本の軍指導部は明らかに、戦争を拡大する危険を冒すことなく、ドイツの(ポーランド侵攻の)ような電撃戦争を東アジア地域でも遂行できると思っていた。だが、米国やドイツは日米紛争を、すでに一九三九年に(ドイツのポーランド侵攻で)始まった新世界秩序のための権力闘争の一環ととらえていた」(同)
そして、この戦争がアジアにおいてもたらしたものについてこう書いている。
「日本の勢力地域は中国からタイ、フィリピン、インドネシアにまで至り、一九四二年には四億五千万人を支配したが、当初、日本によって白人の植民地支配から解放されたと考えるものも少なくなかった」(ベスターマン社「アノ」=高等教育用)
「日本のナショナリストや軍国主義者は、黄色人種を白人の支配から解放するために戦争を遂行したと主張した。このなかで自分たちの利害を包み隠しているが、真実をついた面もある。ベトナムやインドネシア、インドなど、欧州諸国に支配されていた植民地諸国の国民による独立運動は日本の(緒戦の)勝利によって加速された。数年のうちに日本は欧州の植民地支配層を追い出し、こうした支配層の特権が大きく損ねられたからだ」(「歴史教科書」=中等教育用)