【韓国人は何処から来たか】
韓国人の祖先の大部分はシベリアにいたアルタイ系の民族である。
韓国人の目は細い一重が多いがこれは極寒の気候から眼球を守るために変化
したもので彼らの祖先がシベリアにいた証拠である。
そして彼らは氷河期の終わり、1万2千年前ぐらいから南下をはじめ朝鮮半島
にたどり着いた。
この地に国家ができるのは中国の史書によれば紀元前3世紀ごろ、中国の殷の
王族、箕子が朝鮮北西部につくった箕子朝鮮である。
この箕子によって朝鮮人は教化され法を守り盗みをしなくなったという。
韓国の歴史教科書「国史」ではこれより以前に檀君朝鮮があったことになっているが
檀君は1908歳で死んだとされておりあくまでも伝説の粋を出ない。
箕子朝鮮が約100年続いた後、前190年中国の燕の人、衛満によって朝鮮は
支配された。衛氏朝鮮である。都は王険城(ピョンヤン)で衛氏は82年間朝鮮
を統治した。
前108年漢の武帝が朝鮮を征服し楽浪郡など4郡をおき、朝鮮を直轄統治した。
それから紀元後313年までの420年間朝鮮は楽浪郡に支配されたが中国人
支配層によって漢のすすんだ文化が朝鮮にもたらされた。漢の製鉄法や土木建築
技術がそれである。
前2世紀ごろ匈奴に追われた夫余の一派が南下し朝鮮北部にいた。前108年
の武帝の朝鮮征服で玄菟郡に属していたが紀元後32年、後漢の光武帝から独立を
許され高句麗を建国した。ここにようやく朝鮮人は部族国家を持つことができた。
三国志や梁書高句麗伝によると耕地が少なく食物を自給できないほど貧しく、
高句麗人の性格は凶悪性急、風俗は淫らで男女はよく野合したという。
また漢から笛や太鼓の芸人や礼服を与えられるなど文化的影響を受けていた。
高句麗には4世紀後半まで文字は無かった。
一方、このころ(1世紀)朝鮮南部は馬韓・辰韓・弁辰に分かれていた。
辰韓(後の新羅)は12国に分かれていた。梁書によれば辰韓には文字が無く
木に刻み目をつけてしるしとしていた。
弁辰(後の任那)も12国に分かれていた。三国志によれば弁辰の風俗は倭と
似ていたという。
馬韓(後の百済)は56国に分かれていた。三国志によれば馬韓は制度が整って
おらず統治が行き届いていなかった。馬韓人は穴(土室)を掘って住み、囚人か
奴婢のようで礼俗を備えていなかったという。同じ三国志が倭人の風俗は規律
正しく盗みも訴訟も少ないと記述しているのとは好対照である。
また馬韓の若者には背の皮に穴をあけ縄を通す習慣があったという。
この時代まだ馬韓には文字は無かった。
ここで注目すべきなのは弁辰・馬韓人の多くに入れ墨の習慣があった事である。(三国志)
いうまでもなく入れ墨は倭人の習慣であり弁辰と馬韓南部は明らかに倭の文化的
影響下にあった。また倭人の入れ墨は身分を表していたから弁辰・馬韓人のなかに
倭の統治下の身分秩序に組みこまれていた人がいた可能性がある。
4世紀にはいると中国では五胡十六国の動乱が起こり朝鮮への支配力が弱まり始めた。
313年高句麗が南下し楽浪郡を滅ぼし中国の支配が決定的に弱まると馬韓や辰韓で
統一の動きが起こった。
4世紀中ごろ馬韓の内の一国、伯斉が馬韓を統一し百済を建国した。4世紀後半には
中国から博士、高興を招き文字を使うようになった。(三国史記)384年にインド僧・
マラナンダによって仏教も伝わった。梁書によれば百済人も入れ墨をする者が多かった
という。倭の政治的・文化的影響下にあった証拠である。
百済はその後も450年中国・宋から易書である「易林」や占トの道具を下賜され541年梁から
仏法書や毛詩博士、工匠、画師を下賜されるなど中国文化の移植に努めた。
発展が遅れた辰韓も倭人出身の大輔・瓠公が基礎を作った斯廬国が4世紀半ば辰韓を
統一し新羅をたてた。文字も6世紀ごろようやく使われ始めた。
弁辰は十数の小国に分裂したまま倭と深い関係を持ち任那と呼ばれるようになった。
こうして朝鮮三国時代は始まったのである。