本紀

洪武帝{朱元璋} Hong2Wu3Di4 1328-1398
 明の建国者。中国の統一王朝で中国で農民から皇帝になった人物は漢の劉邦と彼だけだと言われる。彼の場合は幼い頃、飢饉によって家族離散し乞食坊主(?)までしていたらしいので、まさしく社会の最下層の出身である。彼の行動には劉邦を見習った様子がみえるものの、知識人に対する処遇などは極めて厳しく、統一後、功臣達を大量に粛正した。
世祖永楽帝{朱棣}(明)
 明の第三代皇帝。燕王に封ぜられたが、高祖の死後、その勢力を背景にクーデターを敢行。甥の建文帝から政権を奪った。
 対外政策に積極策を採用し、五度長城を越えて自ら親征した。また南方は鄭和をインド、アフリカまで派遣して明帝国の威信を広めた。ただしその目的が行方不明の建文帝探しと言われるほど、建文帝を歴史上から抹殺することに腐心した。
 君主権を強化し、その結果、内閣制度が固まったほか、宦官の台頭する余地が開かれた。『永楽大典』として百科全書を作らせるなどの功績も残している。
仁宗洪煕帝{朱高熾}(明)
 明の第四代皇帝。即位後、父永樂帝の膨張主義を諫めて投獄されていた夏原吉や呉中などを出獄させたり、鄭和の大航海を停止させたり、三公復活など独自の収縮路線を試みた。将来を期待されるも、肥満体の病弱であり、在位八ヶ月で崩御した。
宣宗宣徳帝{朱贍基}
 明の第五代皇帝。病弱な父の子として早くからその才能を期待されていた。即位後、叔父高煦の謀反を平定、彼とその家族を紫禁城内の逍遙城に幽閉した。
 賢臣、三楊(楊士奇、楊栄、楊溥)の補佐により優れた内政を行う。対外的には兀良哈部族を討つなどしているが、交阯(ベトナム)の放棄、長城付近の防衛地の後退など、消極路線を採用した。
 芸術的な才能も見せた。しかし皇族の監視を強化し、一方で宦官の教育を強化、将来的な宦官弊害の道を拓いた。
正統帝{英宗・天順帝}
名称を変えました。
 明の第六代皇帝。宦官王振の専横を許す。モンゴルのタングート部族であるエセンの侵攻に合う。王振の進言により親征を行うも大敗。戦場に取り残されたところをエセン軍に捕獲される。
 人質となるも弟(景泰帝)が位についたため使いものにならなくなり、明に引き渡される。軟禁状態にされる。しかし弟帝が病気になった時、クーデターを起こして復位、天順帝となる。
憲宗成化帝{朱見深}
 明の第九代皇帝。年上の万貴妃に頭が上がらなかった。道士なども近づけた。各種の反乱を平定したり、女真族の台頭を抑えるなどの国内の平定には成功した。
孝宗弘治帝{朱祐[木堂]}
 明の第十代皇帝。名君とされる。寵愛を受けていた万貴妃に憚り出生が秘密のまま育てられる。六歳にして初めて宮廷に迎え入れられる。前朝の佞臣や妖僧が退けられ、徐溥、劉健、邱濬、名将馬文升が積極的に採用された。
 公平な裁判を試み、内政に尽くした。
武宗正徳帝{朱厚照}
 明の第十一代皇帝。放蕩君主。宦官劉キンに政治を任せ、宦官達を引き連れて日夜遊びに耽る。ラマ教を信奉し、ラマ僧を尊崇した。宮中に多くの売店を作り自ら売買して楽しんだり、仮装して宮中を抜け出し居庸関まで馬を飛ばしたりした。政治は乱れ、劉六・劉七の乱、寧王の乱などが勃発した。最後は己を罪する詔をだして崩御。
世宗嘉靖帝{朱厚照}
 明の第十二代皇帝。即位始めは減税、宦官勢力の牙城であった東廠、西廠、内廠などの廃止、不急の土木工事の停止など、悪政を一掃して社会や人心の一新を図った。しかし「大礼の儀」の問題が発生し、これに三年間を費やし、楊廷和や楊一清らの大学士は退けられた。また道教に凝り、宮城内に万寿宮という馬鹿でかい建物を建てたり、道士を重用したり、嘉靖十八年には隠居してしまった。
神宗万暦帝{朱翊鈞} Wang4li4 Di4 1563-1620
名称を変えました。
 第十四代皇帝。名は朱翊鈞。最初は宰相張居正の補佐により改革を実行。しかしその死後、政治が乱れ明の衰退を招く。25年の間、群臣に会わなかったとされ、私事や自分の墓作りに国費をつぎ込む。
 陵墓が公開されている。
毅宗崇禎帝万暦帝{朱由検} 1610-1644
 第十七代皇帝。宦官魏忠賢を退け、政治改革を行ったが、朝廷に人材おらず、また彼の疑い深さなどが禍い、また滿洲族の圧迫などを受け、結局李自成の乱により王朝は崩壊した。滅亡の憂き目にあった。
 最後は万歳山において縊死した。
列伝
奢香
 中国は元以降、地方の異民族の酋長を土司という形で体制に取り込んだ。土司は世襲を許され、その嫡男がいない時は妻の承襲も許された。
 奢香はミャオ(苗)族の土司靄翠の婦人で、明との友好に活躍した。
馬皇后
 洪武帝の皇后。内助の功で知られ、陰に陽に洪武帝の覇業を助けた。実家の進出を抑え、外戚の害を除こうとした。
劉基
 明の朱元璋に仕えた政治家、文人。統一を助け、また統一後の制度作りに貢献した。
平安
 平定の子。字を稚穆。小字を保兒。明太祖の養子となった。勇ましく戦いを善くした。建文年間に李景隆に従い、燕討伐の先鋒をつかさどった。しばしば燕軍を破ったが捕らえられた。燕王は彼を惜しみ、北平都指揮使にした。
 後に永楽帝が北京を訪れた際、章奏に彼の名を見つけ「平保兒はまだ生きていたか」というのを聞いて自殺してしまった。
宋濂
 明初の政治家、学者。幼少より文名高く、太祖のそばに仕えた。「元史」編纂の総裁官。明一代の礼楽制度は彼によるところが大きいとされ、開国一の功臣であった。
鄭和(明)
 明の宦官。永楽帝の命により大船団を率いて南海遠征を行った。友好を旨としながら、時には果敢なる武力行使も辞さず、困難な外国交渉において優れた手腕を発揮した。訪れたのはアジア、インド南岸、アラビア、アフリカ東岸の三十余ヶ国に至り、各国との経済、文化交流を促進させた。
方孝孺 1357-1402
 建文帝の忠臣。永樂帝のクーデター、すなわち靖難の役において討伐に画策したが失敗して南京陥落と共に捕らえられる。永樂帝即位の詔書を書かれるよう命ぜられるも頑として聞き入れず、「燕賊奪位」と大書して磔の刑にされた。連座して殺される者、873人にのぼったという。
夏言 1366〜1430
 明の権臣、政治家。世宗嘉靖帝の始め、庶政の一新を上疏し以来、帝の信任厚くこれを頼んで至極驕恣であった。厳嵩が寵を得ると失脚し死刑にされた。
厳嵩(『明史』308巻(中華書局本26-7914))
 明の宰相格となった人物。宦官がはびこる中、負けずに賄賂政治を行ったことで、息子の厳世藩とともに有名。王振が宦官としての収賄の祖ならば彼ら親子は宰相としての収賄の祖であったという。道教を信じた嘉靖帝のもとには道教の祈願文「青詞」の作成に巧みな人物が採用され、彼もその一人であったため、青詞宰相などと呼ばれたらしい。
王守仁{王陽明} Wang2Shou3ren2 1472-1528
 字を追加しました。
 陽明学の創始者としてしられるが、生前は寧王の乱の鎮圧に貢献するなど、優秀な官僚として活躍した。
『中国人物叢書7 王陽明』 谷光隆/著 宮崎市定/監修(人物往来社)
任環 1519-1558
 山西長治の人。嘉靖期の進士。蘇州府の同知(副府長)となり倭寇退治に活躍。
 兵士と寝食を共にし,得るものを皆に分配し,慕われた。山東右参政(布政使の補佐役)となった。「山海漫談」という著述がある。
戚継光 ?-1587
 倭寇退治に活躍。王直を捕らえた。その後,北方防備にまわされ蒙古の侵入を防ぐ。
王直
 徽州出身。明の海賊。『明史』では汪直と誤記。
 無頼出身で1540年より私貿易を開始,倭寇と結託し,「五峰船主」と称した。寧波などを拠点とし,各地を強掠,「淨海王」「徽王」などを称した。長崎平戸にいたこともある。1552年以降,倭寇を引き入れて各地を荒らし,軍民死ぬ者計り知れなかった。
張居正 1525-1582
 明の辣腕政治家。神宗が即位すると主席大学士(実質的に宰相)になり、十年間、独裁的権力を行使した。対外政策、内政刷新などを行ったが、財政政策を進めて財政問題の改善に貢献した。
 しかし厳しいやり方や、親の死に喪服しなかったなど、強い非難を浴びた。
袁崇煥 ?〜1630
 広東の人。対滿洲族戦で活躍。ヌルハチを大砲で撃退し、その傷が元でヌルハチは死亡。後に太宗を撃退中、反間策を用いられて死刑にされた。
張献忠
 明末の反乱軍の頭領.「民衆に対する殺傷、その他の犯罪行為を取り締まり、銭糧3年を免ずる」というスローガンを掲げ、下層不自由農民の地主支配からの解放、婦人部隊を作ることによる婦人の解放などを行う.
秦良玉
 明末の四川の宣撫使、馬千乗の妻。彼の死後、彼の代わりに兵をまとめ、白桿兵と称した。後に北上し、清の兵に抵抗、京師(北京)に入城する。蜀を回復するが、張献忠と対立し、頑強に抵抗、後に病死する。
鄭芝龍
 鄭成功の父親。海賊として活躍し,後に明に降る。李自成により北京陥落後,唐王を擁して明回復運動をするが清に敗れ降伏。鄭成功の活躍により疑われ殺された。
鄭成功
 明の回復指導者。日本人を母に持ち、日本にて生まれる。七歳で明に渡る。南京を攻撃するが失敗、当時オランダが占領していた台湾の攻略に成功、大陸反攻の基地にしようとするが翌年没した。台湾が中国の一部となるのはこれ以降である。
 文天祥、岳飛などとともに国民的英雄となっている。
『南海の風雲児・鄭成功 』伴野朗(講談社文庫)