貢女と妓生庁
 ◆<貢女と宦官>
朝鮮史では新羅が統一王国をつくってから、中華帝国の歴代王朝の属国として「貢女(コンニイ)」と「宦官」を宗主国に献上するのを慣例としていた。とくにモンゴル人統治下の百五十年間、「元」の世祖は、高麗王室を再建させ、権臣の跋扈を根絶させた。しかも元宗を即位させ、公主(皇女)を世子に降嫁させた。 しかし、高麗朝の貴族社会にとって、もっとも苦痛だったことは、処女を「元」に献上せざるをえないことだった。モンゴル人の将兵たちも、高麗朝に女を求めた。王室将相をはじめ、貴族たちは「蛮子(マンツ)軍」に女を献上せざるをえない。それ以後の「明」にも「清」にも「貢女」を献上せざるをえなかった。この記録は、高麗史、稼亭集、墓誌にもはっきり記録されている。中華帝国歴代王朝への「貢女」献上は、朝鮮文化と婚姻の風俗を一変させた。 李朝が毎年、宗主国に朝貢する貢ぎ物の中にも「宦官」と「貢女」が見られた。しかし「清」に対して毎年、供出する宮廷慰安婦、美女三千人という『朝鮮事情』の記述に関しては、私は多少の疑問がある。 中国歴代の王朝の宮廷では「後宮美女三千人」が通説ではあり、清の武帝や梁の武帝の時代は一万人を超える場合もあった。清の薙正帝のような名君は、きわめて少なかった。 しかし、李朝時代には、それほど大量の美女を毎年、宗主国へ送ることは考えられない。たとえば、李朝の代表的暴君といわれる燕山君は、最高学府である成均館や司諌院(サガンウオン)を遊興の場にし、名刹円覚寺(ウオンガクサ)を廃寺にして掌楽院を改称して妓生院(キーセンイン)とした。さらに全国各道に伎楽制度をしき、全国から美女を集めて、女官の「採青女使(チョチョンヨサ)」を送った。集まった美女は千人を超えたといわれているが、三千名には達していなかった。寵愛とお気に入りの「運平(ウンピョン)」、「継平(ゲビョン)」、「興清(フンチョン)」といわれる宮中に住む官女は三百人、「平楽」(ピョンラク)院の定員はやはり七百人で、やはり千人にすぎなかった。
 ◆<妓生と妓生庁>
さて「妓生」の起源は、はるか新羅、高麗時代からすでに存在していたといわれる。李朝時代から妓生庁という官庁に官妓が置かれ、学校まで作って歌舞など諸芸を教えていた。朝鮮半島の妓女は、『朝鮮開化史』(博文館)によれば、三階級に分けられていた。一牌(イルパイ)、ニ牌(イーパイ)、三牌(サンパイ)という分類である。一牌は、官妓といわれ、通称妓生で、平安道は官妓の名産地といわれたそうだ。二牌は、官妓の落ちこぼれかそれに準ずるもの、三牌については、恒屋氏は、次のように述べている。「三牌ハ通常ノ私窩子ニシテ大抵汚穢極マル者ナリ(略)・・・、淫ヲ売リタルニ初マリ高麗ノ中世淫風ノ盛ンナル時ニ発達シタル者ナリ」 李クの『ソンホサソル』によれば、妓生の出身は、揚水尺からくるものという。揚水尺とは韃靼系の流浪民で、三国時代から咸鏡道をへて、朝鮮半島各地に流入してきた少数民族だとされている。しかし、それが妓生の源流だというのは、ただの推測にすぎない。李氏の説はかならずしも正確ではない。 妓生は世襲制で、高麗末期から李朝初期にかけて全盛期であったともいわれる。雪梅(ソルメ)のような大臣をやり込める名妓まで出ていた。李朝太宗の時代になると、酒色に溺れる淫らな風俗を是正するために、一度、妓生制度改革を試みたが、成功しなかった。もちろん、妓生は一牌、二牌、三牌に分けられ、一牌の官妓には、「薬房妓生」、「針房妓生」、「教坊妓生」あるいは「玉堂妓生」と官女に近い地位で、官位まで持ったものもいたが、地方の官妓は、もっぱら官吏の接待で、性奴隷のような境遇にあった。 朝鮮半島はソウル以外は、典型的な村社会だから、江戸の吉原のような遊廓はなかった。「三牌」の集落は、売春宿になっていた。道楽好きな両班の連中が通うのは、妓生の宿であった。『春香伝』の「華房」とは「妓生房」のことである。 高宗の父大院君は、第二子熙が、二十五代の哲宗の継承者として指名される前に、党禍から脱出するために、よく市井の無頼漢と群れをなして、酒を飲み、娼妓遊びをしたとも書かれている。(略)