朝鮮最古の歴史書【三国史記】から白村江の戦いや倭国について

『新羅本記第七』
倭国の兵船が百済を救援にきた。倭船は千艘もいて、白沙に停泊し、百済の精鋭騎馬隊が船団を守っていた。

『百済本記第六』
さきに倭国に人質となっていた旧王子扶余豊を迎えて、彼を王とした。
*「旧唐書記」「新唐書紀」「列伝四金仁問伝」「日本書紀」にも同様な記述。
熊津江から白江にゆき、陸軍と合流し共同して周留城にせまった。倭軍と白江口で遭遇し四度戦ってみな勝ち、倭軍の船4百艘焼いたが、その煙や炎は天をこがし海水は丹くなった。

『列伝第五』
昔于老や朴提上の項目には倭国や高句麗に新羅が人質を出していたことが書いてある。
また、当時倭軍がよく新羅に攻めてきたことが記されています。四世紀ごろ

金富 車式 
井上秀雄訳注

『高麗の正史』にも書いてあるように、百済は大和朝廷に皇太子を人質として差し出していた弱小国だったし、滅亡後は、百済の王族や貴族は、殆ど全員が唐に連行されるか、日本に亡命して貴族の末席に列せられたり地方官吏に任命されたりしている。技術者も主だったものは彼らと共に日本に亡命した。 即ち、今の韓国人は、それ以外の百済の庶民階級や奴隷達の子孫である。
参考
古代氏族の出自を明記している基本史料である「新撰姓氏録」によると、諸蕃(帰化人)が30%近くを占め、その半分が漢系で、次が百済系で約10%に達します。
 百済の王族を含めた膨大な民衆の亡命を受け入れたわけで、東国の開発などに従事させています。と言うわけで、むしろ百済人は、日本人の要素の一つと見るべきでしょう。
 逆の話もあるわけで、朝鮮正史の「三国史記」には、第四代王の脱解尼師今は、倭国(ヤマト)の東北千里の多婆那(タバナ=丹波説が有力)国の王と、女国の王女の間に生まれた子供であると明記されています。要するに、日本人の新羅王の存在を認めているわけ。
 「三国史記」には、高句麗好太王碑文で記された時期に、百済の皇太子と新羅の王子が、倭国の人質になったことも明記しており、碑文の記述と調和的です。
 考古学的にも、最古の前方後円墳は、200年頃に奈良県おおやまと地域で発生したと考えられ、次第に分布域を拡大していき、5〜6世紀には朝鮮半島南端にも分布するようになります。これは、古代日本の任那支配と調和的です。