武蔵の国は百済人による入植地

崩壊した百済の支配層を受け容れ亡命させるため,府中は国の司(つかさ)が百済人と決められていた。
7世紀後半以降、新羅が朝鮮半島を統一するという情勢を受けて政治的には、これまでの日本各地の渡来人を東国の武蔵にまとめる必要があった。

 西暦
666 年  「百済人男女2千余人東国移住」
716 年  「高麗郡の設置関東の高麗人1779人を武蔵国に移す」
758 年  「新羅郡が設置される(現在の横浜市)」
760 年  「新羅人131人を武蔵の地へ移り住む」
1600年   15万人
1700年   85万人
1800年   130万人
1920年   400万人 
1960年   1000万人
         

武家に対し、町人は江戸の全体面積の15 〜20%の土地に65万人が生活。
多摩川以西はおろか新宿区、世田谷区、目黒区なども帰化大陸朝鮮人が多く住む。
隅田川以東の足立区〜江東区は上総の国で、江戸ではない大凶の地。
外堀以外の地、埼玉、千葉、神奈川も帰化系の人間が大多数住む。
東京・赤坂・日枝神社のヒエとは、関東に多い「日枝神社」。別名を山王という。
その「日枝」というのは同じ言葉、朝鮮語の「イルギ」だ。
その証拠が次に示す「(居木)イルギ神社」だ。
東京の環状道路の中でもっとも古い環状6号線、通称・山手道りの終点。
曲がりくねって流れる目黒川に面したこの一帯、古代の趣はどうだったのだろうか。
おそらく鬱蒼とした森陰に龍を思わせるせせらぎが巌を噛んでとうとうと流れていたのだろう。
その目黒川の河口に品川神社、東海寺がある。さらに居木橋のまわりは高層ビルが林立している。
環状6号線からは狭いだらだら坂を入るが、家屋の頭越しにそれらしい森が見える。
そんな小高い森の中に「居木神社」がある。
「居木」の語源として、昔この地に「ゆるぎの松があったから」と由緒書きにあったが、ここは「ユルギ」の里だった。
すでにそのころは「イルギ」の意味は風化して「ゆるぎの松」にかろうじて残っていた、というわけだ。
日枝とは、「日(イル)とギ・チ」の連合体だ。ゆえに結論としてこう言える。
つまり「日枝神社」よりも「居木神社」や他の「ユルギ神社」の方が元の韻音を保っているから、「日枝」と漢字化される遥かに以前から渡来してきた集団である。

神奈川・厚木市の寄木神社。これも元の読みは「ヨルギ」で上記の「居木」と同じ、「日枝」と同類である。この辺りの地名は漢字化される前はどう発音されていたのかに意味がある。その寄木神社から相模川を越えると寒川町に入る。
この辺りは高座郡でもあり、ご存知、高句麗からの渡来人が入植したと記録にある土地だ。
こう考えると、小動神社(こゆるぎ)も「イルギ」であり、「日枝」なのである。
つまり「ユルギ」の頭に「小」がついてるがこの「コ」は、まさに高句麗の「高」だ。 さらに鎌倉に近い湘南海岸・江ノ島を望む江ノ電・腰越駅のそばにある小動神社。
この神社も「ユルギ」、つまり「居木」であり、「日枝」と同格だった。
東京・青梅市の北、市民公園の近くにある石動神社。
いまでこそ整備された公園が連なる憩いの山並みだが、昔は苦労の多い里ではなかったか。
たどり着いた神社は、まだ再建されて間もないらしく、手入れが行き届いていた。
由緒書によると石川県鹿島町の石動山から勧請された神社とある。
「ユルギ(動)」に「石」が付いているのが納得できるはずだ。
この地に入植してきた人々が祖先伝来の祖神をここに運んだもの。
この「ユルギ」神社も「居木・日枝」と同じということになる。

ソウルにある南大門を日本では「ナンダイモン」と呼ぶけど、現地語では「ナンデモン」と言う。これと同じで、日本語でも「なんだい?」と聞くのを「なんでえ?」と言う地域がある。つまり、「だい」を「で」と発音する地域が日本にも韓国南部にもある。
これは渡来人のルーツを決める決定的証拠である。
ダイダラと大多羅。
伽耶というのは古代南朝鮮の六つの国の連合体で、六伽耶と呼ばれていた。
その一つが多羅なのだが、ダイダラボッチのダイダラとは多羅に美称の「大」を付けたものだ。
関東各地の話に共通するのはダイダラボッチ(またはデーラボッチともいう)が
富士山と筑波山に足を置いて立つ、でかい「巨人」である。
つまり、富士山から筑波山まで見渡すかぎり、関東地方はほとんどが多羅人で占められていたことを意味する。
「ボッチ」とはまさに文字通り、「ひとりぼっち」「これぼっち」のボッチで、「…きり」という意味であり、ダイダラのダイとは多羅に美称の大をつけた大多羅のことだ。
すなわち、「ダイダラボッチ」とは大多羅ばかりだ、ということを表しているのである。後世、平将門が「我こそは関東の天皇だ」と朝廷にたてつくのもこうした背景があったからだ。
関東の神社に祭られている祭神に「出雲の神々」が多いのは、多羅人(後世、かれらは新羅系となる)が出雲王朝を通じて入植してきたことを物語っている。
多羅はその後、安羅(安良)、加羅とも呼ばれ、羅がヤ行変化してアヤ、カヤともなる。多羅の「多」が「大」と交換して「タイ・ラ」となり、「平」になる。
これが「平氏」の始まりであり、坂東平家のルーツは多羅である。
「たい」が「て」になる音韻変化の法則から「大羅・平(たいら)」氏によって広まった百済仏教、その建築物をわれわれは「おてら(寺)」という。
そう、テラの語源はタイラが変化したものなのである。つまり、寺の名付け親は多羅人で、地名で「寺」がつくのはお寺とは関係なく、「平」と同じ意味である。
8世紀の初頭、大和朝廷はつぎつぎと律令体制を強化していき、「日本」という国号もこの頃から使われだしたらしい。
そこで活躍したのが、漢字の用法に長けた元百済の官吏たちである。
彼らは、新国家・日本の中からそれまで呼ばれていた「伽耶」色の地名を一掃するために漢字用法を縦横に駆使した。
ところが当時、漢字には「魂」が宿っていると信じられ、精神性になったのが道教である。
それまでの日本には「呼び名」はあってもそれを表す文字はなかった。 そこに漢字を当てていく作業が始まったのが天平宝字(757年)である。
彼らは、「伽耶隠し」「百済隠し」「新羅隠し」「韓隠し」をしながら、同時にいままでの呼び名に新しい漢字の「音・義」を盛り込み、密かに閉じ込めていった。だから「木村」を「木のある村」と見るのは間違いで、キム・ウラ、つまり金浦、そうあのキンポ空港のある「金浦」のことなのである。湘南の海岸線に高麗という町がある。ところが街の鎮守の名前は「高来神社」とある。
どちらも「こうらい」と読めるが神社のほうは「たかく」神社と読ませている。
これも、明治政府の「朝鮮隠し」の生きた証人だ。
「高麗」という地域表示はいまも街角に残っているが、高麗という地名がどうしてここにあるのか知る人は少ない。

東京都のベッドタウン・町田は、元は待田だった。
「待」は音読みでは「たい」であり、タイは「大」に通じるから、代田や大田と同じで多羅(平)、大多羅(百済)と言ってもいい。
なぜ百済を「くだら」と呼ぶのか。韓国では「百済」のことをペクテェと言い「クダラ」とは言わない。
なぜ、日本では「クダラ」と呼ぶのか。
クダラの「く」は「句」なのである。つまり日本でいう「百済」とは「句・多羅」なのだ。 では、「句」とはなにか。
相模湾に上陸した高句麗からの渡来人は、埼玉県日高市に定住して帰化した。
高麗の間の一字「句」。これは「句」に特別な意味があることを物語っている。
この「句」とは、高麗族の出自である夫余のシンボルである「狼」を意味する「狗」のことである。
パッと咲いて、ぱっと散るあの「桜」。日本の国花「桜」。さてその桜の語源はどこからきたのか。
サ・クラは「高麗の新天地」と解される。「サ」は「東」の意味である。
「東」とは、復活した太陽の出てくる地、つまり新天地ということなのである。
「東京」とはつまり、高麗の地、朝鮮人の都という事になる。
信楽 楽浪 白鬚 白木 知多 新城 設楽 新治 渋谷 志村 志木 志賀 有馬 都賀 柘植 土岐 彼杵 清水 …なども「新羅」の別名である。
例えば、東京都品川も「タ・ラ・ナ行通音変化」して「しら」が「シナ」になった。
白鬚とは新羅=Sigl-lakに白髪の若光王像を重ねた地名。
隅田川・白鬚橋付近にこれだけ集まった白鬚神社。
古代、隅田川ほとりに新羅人が大勢いた証拠だ。
ちなみに、墨田(スミダ)も朝鮮語である。新羅のことを豊かなクニとして「豊の国」と呼んでいた。豊の国は、トヨノヒワケ、トヨヒワケといふ。
そしてこれらに共通の『ヒ』とは『日』のことである。
この日は『アサヒ』ノ『国(くに)』『朝鮮国』を指している。
朝鮮は日の国、日の出る国、朝日の国、朝の鮮(ヒ)の国と呼ばれ、そして我国のことを『日の国』即ち『日本』と呼ぶようになった。

「田中」という苗字。タナカとは「耽羅(Tanla)」のことであり、耽羅とは古代の済州島のこと。
その耽羅(たんら)のことを「タナッ」と呼んでいた時代がある。「タ・ラ・ナ通音の法則」による変化だ。
その「タナッ」の末尾音Kに母音が付いて「タナカ」となったのである。
耽羅国と呼ばれていた済州島。
その古代、信仰を集めていた「漢拏(ハルラ)山」。田中といえば「耽羅」、「耽羅」といえば「漢拏山」。
その済州島の古地名・耽羅(タンラ)が「TANAK」と呼ばれ、それが「田中」のルーツになった。
春日はハルラだ。「春日」はカスガというが、これは定説なし。
八王子には榛名神社がある。
当然のように「田中」という旧地名が残っていて、近くには「春日神社」もある。
榛名とは「ハルラ」であり、「春名」でもある。
渋谷は「新羅」の変化形。シはシ、ブは「武」を「む」と読むようにムでもある。
そして「ヤ」はヤ・ラ・ナ通音でわかるように「ラ」に変わる。
こうしてみると「シブヤ」は「しむら」であり、「志村」とおなじ、新羅のことなのだ。
「馬韓(百済)」は同じ夫余族・高句麗との戦いに敗れてどんどん南下を余儀なくされていく。相模・神奈川の地に亡命百済王氏が続々とやってきた。その中から「ヤマト」が生まれてきたのである。
相模という地名もまた「サ」がついている。単純にとけば「さ」+「神」または「熊」とも解ける。
この相模国は、670年代ころ高句麗から渡来した高麗王若光が大磯に上陸するとき、「汝等それにてよく聞けよ、われは日本の者にあらず、諸越の高麗国の守護なる…」とのたまったように帰化人・渡来人が集結していた土地である。
武蔵国内だけでも朝鮮帰化族は二分裂し、武蔵、胸刺とする形勢を取ったが、その意は共に同じく「宗城」「主城」である。武蔵における朝鮮帰化族は自ら武蔵をもって帰化族の本家とする考えで、宗城、主城の意でムサシといったのだが、武蔵以外の朝鮮帰化族は相模にもいた。この相模の帰化族は、相模高麗寺山を中心とし、武蔵のそれに対抗して、相模を帰化族の本家とし、これを帰化族の中心地と考え、武蔵のサシに対し、相模を「さねさし」即ち真城(さねさし)といった。
そうした混乱状況を断とうとして結集したのが、百済王氏の「ヤマト」だったのだ。

1200年前の関東人にしてみたら… アメリカ人に「アメリカ人はどこから来たか」と問えばおそらくこう答えるだろう。
「なに寝ぼけてんだい? 世界中からに決まってるさ。」では、東京人に聞けばどうか。「アッタリ前じゃん。全国からさ。」では1200年前の関東地方の人々に聞けばどうだろう。「朝鮮半島からで〜す」となる。

「世田谷区の地名」という1984年に世田谷教育委員会が発行した本がある。
世田谷区民のために、区のアイデンティティーを探求したマジメな本だが、その中で「武蔵」とは、という箇所でこう言っている。
武蔵・相模の地は、高麗・高句麗・百済・新羅など朝鮮半鳥系の帰化人によって開拓され、武蔵の区域は二分裂し、互に本系を表示する「宗国」「主国」の意を古朝鮮語の訓で称え「ムネサシ」と言い、一は「胸刺」の字をあて、一は「ネ」が略された「牟邪志」の字をあてて表わしたもので、これに対して相模の地域の方は、本系を表わすのに「真」を用いて「真城(マネサシ)」(真倉)と言い、これが後に相模の枕言葉になったものである。
なぜ日本の支配層や国民の中に反高句麗、反中国色が強いのか?
国を奪われた百済王氏族の恨みは日本支配層の建国思想となった。
根底に「高句麗=北朝鮮」という認識が古代から延々培われてきたからである。
しかし、このことが逆に日本の真の姿が「百済」である証になっている。
夫余族の本流を巡って争ってきた高句麗と骨肉相争う関係になって小競り合いを重ねてきた百済が、とうとう西暦660年、唐・新羅連合軍に敗れた史実と無縁ではない。元は遼東半島一帯までも領有していた百済の勢いが、覇権を巡る長年の戦いでじりじり衰退し、ついに数え切れない数の王氏族が朝鮮半島から追い落とされるように、日本へと逃げ渡ってきたからである。
国を奪われた怨念は1400年たったいまなお、日本の王氏族の中に血脈となって流れ、それが中国、韓国への頑な反中国、嫌韓国の排他主義を育てるようになったものである。氏は長年「高句麗こそ日本文化の原点」という観点で、夫余族の兄弟国・高句麗遺跡を訪れている。
中央と千代田が並んでいる理由とは中央をChiwoと読めば中央・千代・千葉・千穂は同じ。
高句麗の「シボ族(xivo)」という民族は紀元前後から4世紀にかけて大挙、戦乱を逃れて朝鮮半島を南下し、日本列島各地へと移動していくのだが、その過程でアイデンティティーともいえる民族名がさまざまな漢字に転訛されて拡散していくことになる。
civo(シブォ=sibaが「芝」地名の語源)という民族名もやがてciwo(シウォ)に、さらにはchiwo(チウォ)に変わっていったのだ。それを裏付けるのが「千葉」である。
千葉の語源とはシボのciwo(シウォ=塩釜などの塩の語源)の(ウォ)を「葉(よう)」という漢字に当てて、まずchiwo(チウォ)になり、やがて語源の意味が失われていくと、woの「葉」が訓読みのva=「ば」と読まれて「チバ」になったり、その千葉をセンバと読んで「船場」や「浅間」とどんどん脱線して新天地に運ばれていったのである。
もちろんここで見る千葉とは、まさに「中央(chiwo=チウォ)」と同じなのである。
ということがわかるとなぜ「中央」の近くに「千代」があるのかお分かりだ。
つまりこの二つは語源が同じだ、ということである。何らかの理由で地域を分割する羽目になって、一方が同じ漢字ではマズイということになったのだろう。
読みが同じで字が違う異口同音のお隣同士は結構あるのである。
シボ族とホジェン族は鮮卑族の一員で、ホジェンは日本に来ると「豊田」「豊前」の漢字に当てられる。
たとえば千葉、八千代に近い千葉県船橋市中山競馬場隣の「法典」。これは、ずばり「ホジェン」だろう。「ホジェン」は「ヘジェ」とも呼ばれていたがこれは北朝鮮の「平壌」に通じる。
平壌は古代、一時は百済の王都でもあったことを考えると中部地方に多い「ホジェン」地名が深い意味を持ってくる。
世田谷区の歴史という本で、奥沢神社に続いて大音寺というお寺を紹介する記事がある。 「今は寺の境内だけが小山をなしているが、昔は北方に細長くおよそ三〇メートル以上も山がのびていた。
ここの字を開平(かいへい)というが、昔はどういうわけか朝鮮丸と呼ばれていた」というのである。
つまり奥沢神社の近辺は、昔は「朝鮮丸」と呼ばれていたというのである。だから「朝鮮丸」は普通の地名であった。
その朝鮮丸と目黒区の「長者丸」とは5キロくらいしか離れていない地続きと言ってもいい距離にある、ということで考えられるのは、入植当時この辺り一帯は大雑把にただ「チャウ・ス」(チャウスン=朝鮮)であった可能性がある。そしてそれが奥沢地域では「朝鮮丸」と呼ばれるようになった。 一方恵比寿のほうでは「長者丸」として定着した。この二つの「チャウス」にはアムールの「朝鮮族」(天孫一族)と同じ血を引く人々が生活を営んでいたはずだ。
ところが「朝鮮丸」の地名はいつしか、偏見や蔑視にさらされて消えていったのだろう。 いまこの地域で「朝鮮丸」の呼称はどこを探しても見当たらない。
東京・赤坂・日枝神社のヒエとは?元は比叡山延暦寺と一緒。
朝鮮人が大量に入植する中で、いつしか捏造や隠蔽、なりすましといった陰険な犯罪行為が土着の文化になってしまい、嘘で真実が作られるのが当たり前になっている東京。