私が、特に親日国だなあと感じたのは、トルコとメキシコですね。

特に、当時トルコは「世界一の片思い」といわれるくらい、日本のことが大好きだが、
日本はあまりトルコに興味がない、という状況でしたね。その後、日本からの観光客も急増して、うれしく思っています。
トルコの人は日本人と見ると、自分の持っている日本製品、日本の絵が描かれたもの、日本人から送られた写真と手紙を
自慢げに見せてくれました。「日本とトルコは昔からの親友でしたね。」という意味のトルコ語を
話すと、値段交渉は終わり、殆どこちらの言い値で売ってくれます。悪いと思いつつ、向こうも喜んでくれるので、多用しました。
トルコの国旗は三日月と星なんですが、昔中央アジアで同じ民族だった日本人とトルコ人が、
東西に分かれるとき、天にある太陽と月と星をシンボルとして分け合った、という人さえいるくらい。
大地震の時も、日本の迅速な援助に「困った時の友が本当の友。日本の友情をトルコは永遠に忘れないだろう」
と政府高官の方はおっしゃっていましたね。その直後、台湾でも大地震が起こったので、日本の援助はそちらに重心が移ってしまいましたが。
メキシコも日本が大好きですよ。日本人というだけで、男性も女性ももてるらしいです。日本人男性がもてるのは、ちょっとめずらしいですね。
メキシコは親日国になったのは、メキシコの船が難破して、日本の海女さん達が命がけ(実際何人かなくなったそうです)
で助けてくれたことがあって以来だとか。いつの頃の話か、詳しいことは忘れましたが。
詳しい話は、もし調べて見つけたらまた、書き込みします。ガイドさんから聞いた、うろ覚えなので。
ただ、日本とメキシコの交流、メキシコの親日ぶりには、目頭が熱くなるくらい感動を覚えた記憶があります。

深田祐介の最新東洋事情”の”日本人より日本を愛する国、ミャンマー”編より抜粋

ミャンマーでは、政府高官からジャーナリストに至るまで、正面から日本人を見据えて、
「ミャンマーが今日あるのは、日本のおかげです。日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、
独立することができた。われわれは深く日本に感謝しているのです。」
ミャンマー国軍の盛大なパレードは、いきなり日本の軍艦マーチから演奏が始まる。
日本人はそばで聞いていて恥ずかしくなが、旧日本軍の軍歌のレパートリが増えるらしい。
ある日本の外交官夫人は、
「長年、外交官の夫と連れ添って、あちこちに暮らしたけれど、こんなに日本人が好きで、
親切な国に暮らすなんて初めてでしょう。ここまで尽くして貰っていいのかしら、
そうおもって、身も世もあらぬっていうか、身がすくむような気持ちになってしまうの」
・・・
「30人の志士」は、ビルマ独立運動を支援する南機関、日本陸軍の鈴木大作大佐の庇護する
組織のもとに、ビルマを脱出、箱根の岩崎別邸に終結したのち、海南島に運ばれ、
徹底した教育を受ける。
・・・(やがて時が過ぎ)
このまま日本軍と行動を共にすれば、英軍に敗北し、ビルマが再び英国の植民地に逆戻りするのは
火を見るより明らかである。
30人の志士は英軍に同調、抗日戦に踏みきる秘密会議を持ったのですが、30人のひとり、
ミン・アウンは恩義ある日本人に銃を向けるに忍びずとして、最後まで抗日に反対、
抗日戦決定後、自決してしまうのです。
・・・
戦争末期、英印軍に追われて、退却したが雨季で水量が増して川を渡れなかった。
もはやこれまでと自決を覚悟していたら、突然地元のビルマの人たちが現れて、
船を出して、全員対岸へ渡してくれた。他の戦線では敗走する兵隊は後ろから撃たれたり、
刺されたりなぶり殺しされて、僅かな持ち物を奪われる。
・・・
88年の動乱以降日本新規のODAを停止している。
・・・
ミャンマー政府の高官筋では、
「われわれはシンガポールも韓国も歓迎してやしないんです。
しかし肝心の日本が出てきてくれないから、止むを得ず彼らに頼まざる得ないんですよ」
「われわれはしょちゅう嘆いているのですよ。どうしてアウンサン・スー・チーは
イギリス人なんかと結婚したんだと。なぜ日本人と結婚してくれなかっただとね」
ミャンマーには数千人の日本兵が残ったらしい
多少リップサービスも入っていると思いますが、今でもそうなのかな!

パラグアイ人は日本人が好き

   ある日、私のお客さんがカラオケに行かない?と誘ってくれました。私も日本から 来たばかりで「えっ!カラオケがあるんですか?」と尋ねるとその方は「隣町です。 今から行きましょう」というので飲むのが嫌いではない私は一緒に出発しました。
一時間たったでしょうか、「もうそろそろ着くんでしょうね」と私が聞くと彼が 「ええもう後180KMですから、すぐですよ」と答え内心{騙されたなあ、これで 隣町っていうのかよー}とも思いましたが彼のベンツは乗り心地も良くすごい 速度で走ってましたからまあすぐかもしれないと考え直し快適なドライブを 続けてました。それから10分くらいしてどうも私は後ろの車につけられている ように感じ「強盗が多いようですが後ろの車は怪しくないですか?」と言えば彼が 「大丈夫、私はいつもマグナムを持ってますから脅してやりましょう」とバッグを 探したのですが家に忘れてきたようで「まあいいです、私のベンツは最高速度 200KMでますから彼らのサンタナじゃあ追いつけないでしょう」と言い ぶっとばすと後ろの車も急スピードで追っかけてきて私たちはこれは強盗だと確信 しました、後は映画のカーチェイスさながらでもう数キロで警察があるところまで 来たときに彼らはライフルで撃ってきました、最初は空砲でしたが私たちが止まら ないので平行射撃にかわり私は助手席で実況中継しながら頭をかがめてました。

もうだめだと判断し停車すると二人の男がよってきて「何で逃げるんだよ」と ライフルを向けられ後ろのトランクを開けるよう言われるがまま開けると彼らは 荷物を一つ一つ見て「何だこれは?」「ワカメです」{これは?」「ラーメンです」 「粉があるだろう、出せ」というのでパン粉を渡すと「何人だお前らは、何なんだ これは?」という具合でどうも様子がおかしいと思いながら「日本人ですが」と 答えました。そうすると彼らは「なあんだ、日本人なの?やだなあ言ってくれれば 撃ったりしなかったのに。私たちは麻薬Gメンで今日東洋のマフィアが麻薬を運ぶ という通報があり、つけていたら急にあんたら逃げるもんだから絶対こいつらだと 確信したんだ、ごめんね。」と謝り私たちも緊張が解けましたが、やはり逃げたの だから一応警察署に来てもらうと言われ連行されました。

着いてしばらくすると署長が現われ「いやあすまなかったねえ。日本人がそんなことする訳ないもんね、彼らも仕事だから許してやってほしい」と謝りマテ茶を出してくれました。それから署長は彼らに「お前ら知ってるか?日本人は偉いんだぞう、悪いことしたら自分で腹を切ったり首切って、小指まで切っちゃうんだよねえ。責任感があるよなあ」と言えばGメンは「ひええ、痛いだろうなあ、良かった日本人じゃなくて」と気持ち悪がり私たちもせっかくの署長の勘違いを否定するのもはばかられ「ええ。そうなんです。」と答えると彼は得意の絶頂で「私の祖父は壊血病で48歳で死んだしパラグアイは昔、野菜を食べる習慣がなく大体早死にしたもんよ。ただ日本人が移住して野菜を作ってくれ市場で買えるようになって私たちもやっと野菜を食べビタミンを取り出したら皆長生きになって俺のおやじなんか80歳だけどまだ元気だ。中国、韓国は商売ばかりで日本人だけだよ百姓やって頑張ってるのは分かったかお前ら日本人は偉いんだぞ。」と言ってくれ商売をしている私たちには面映ゆく早く逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。

それから私が持っていたふりかけ、友人が醤油をあげると署長は「これ美味しいんだ、やっぱり日本人はアミーゴだね。よし無事関所を通れるように私が許可書を作ってやろう」と車の前に貼ってくれました。おかげでそれからは関所を通るたびに敬礼されノーチェックで通過でき「水戸黄門の印篭なみに威力がありますね」と喜んで彼はその後もその御加護を受けてましたが、そういつまでも幸運は続かないもので89年のクーデターがあってから軍人は移動され署長も今はどこにいるのかも分かりません。

でもパラグアイには日本が大好きという人がたくさんおり私が聞いた話では120年前からずっと自分の息子に宮様の名前をつけられ現在まで孫、ひ孫あわせたら何人いるか分からないという方が首都アスンシオンにいるそうです。日本から一番遠くて、また近い国なのかもしれないパラグアイなんですね。